ほのぼのらいふ

立教大学で映像と身体について学んでます。演劇やってます。日々ぞっこんです。

ダイヤモンドを手に入れるには。

 

どうも、しがない女子大学生です。

 

はてなブログ、久しぶり。

 

ブログ自体は今もバリバリに書いてるんだけど、実はnoteで書いてます。

 

https://note.mu/freshflower

 

↑これです。よかったらnoteも読んでね。

 

ちょっとこちらのほうにも、noteの内容を共有してこうと思いまして。

今回はその内の一つをお届けしていきます。

 

ではではすたーと!

 


小さい頃から私は、「お金・約束・時間」の3つを守って生きるようにと父から言われて育ってきた。

 

 ̶ ̶ ̶お金。約束。時間。

 

この三大原則さえ守れれば、人生は必ず一般に「成功」と言われるルートを切り開くことができる。


「いやいや、そんな当たり前のコトを……」
と思うヒトは多いだろう。

 

そう、これは当たり前で、かつ間違いのない正規ルートだ。


なんてったって、父親の前例がある。

 

父は今、薬剤師と整体師をダブルでやっている。そのどちらも自営業。
長野から上京してきて企業して、特に整体師のほうは、今では著名人がゴロゴロ押し掛けるほどの盛況っぷり。


みーんな、父に体を治してほしくてお金を払う。


つまり、従業員を雇っても意味がない。下の人にやってもらっても誰も満足しないもの。


自分の力でのし上がって、朝早くから夜遅くまで満身創痍で働く生活。
休日を返上するコトだってざらにある。


一時期は私含め、三人兄弟全員を私立に通わせてくれた父には、まるで頭が上がらない。

 

そんな父に成功の秘訣は何かと尋ねると、決まってこう言うの。


「お金と約束と時間を守る以外の、何物でもない」と。

 

なぜ、この3つが守れると成功するのか。


私はその理由をこう結論づけた。

 

3つとも守れている状態というのは、その人が自立していることの証明である。


つまり、他人に迷惑をかけることなく、私は自己管理がちゃんと出来てますよっていう主張である。

 

ヒトは無意識のうちにこの主張を受けて、「こいつはダメだ」「あいつはすげえ」などと判断している、というコト。

 

日本では特にそうだ。日本人は安定が好きだ。大勢の中の自分が好きだ。


ネットでは匿名でいくらでも誹謗中傷を書き込めるくせに、名前を明かして矢面に立つことは怖がる。少数派になるコトを嫌う。

 

私はそこに、「謙遜」の文化が深く関わっていると思う。


へりくだり、慎ましくいるコトが美しいと言われる日本では、異質な存在は即座にはじき出される。


レールから外れたヒトなんかは格好の餌食だ。
そのヒトの外れている面しか見えなくなって、「ダメなやつだ」とレッテルを貼り付ける。

 

これは、非常に良くないコトだと思うのよ。
誰にだって、得手不得手はある。


なにも自立の証明方法は一つじゃないし、互いのマイナスを補い合って生きるコトが可能なご時世だもの。

 

私は時間を守るコトが苦手だ。継続的に早起きをするコトができない。


でも代わりに、集中力なら誰にも負けるつもりはない。
何時間だって、何日間だって、一つのコトに集中し続けられる。


細かい作業も得意だ。ちょまちょまやるのが好き。

普通にはない発想を持っている、とも自負している。

 

注・別に自惚れているわけではないのです。


そりゃ、天才に比べたらぜんっぜん凡人の域を出ないけれども、あくまでこれは得手不得手の話だもん。

 

時間管理が苦手だっていう私のマイナスは、助けてもらって補うコトが可能だ。
補ってもらうんだったら、私も自分のプラスで相手を補う義務がある。


それが、補い合うというコトだ。

 

「私はこれが得意で、こんなコトもあんなコトもできます。だから必ずあなたの役に立てます。でも時間感覚には疎いから、そこは助けてね」

 

これぞまさに、プラスマイナスゼロだ。適材適所で行きましょうや〜ってやつ。


つまり私は、必ずしも「お金・約束・時間」の三大原則を一人で守れなくちゃいけないわけじゃないと思うのね。
一人で無理なら、みんなで攻略しちゃおうぜってコト。


って言っても、最低限の努力は怠っちゃだめなのはそうよ。頑張っても完璧にできなくて、その時に助けてもらおうぜってコトね。

 

三つ守れるヒトに失敗ルートが開かないのは確かよ。


でももちろん、抜け道も存在する。
そしてその抜け道はそろそろ、抜け道じゃなくて第二の正規ルートになって然るべきだと思うのです。

 

じゃあ、その正規ルートを切り開くために私がするべきコトはなにか。

 

それは、自分のプラスをとことん磨くコト。
そりゃもうダイヤ並みにピッカピカに。


現状、社会不適合者に変わりはないわけだから、「あなたにはなにが差し出せますか」って聞かれた時に、自信満々に「これです!」って差し出せるダイヤモンドを持つコト。

 

ダイヤモンドは、四方八方どこから見てもキラキラしてて美しい。


そのキラキラダイヤモンドになるには、核となる武器を原石として、それを磨くための研磨剤を用意するコトも重要だ。

 

その研磨剤に当たるのが、知識と実績。


一つをとことんまで極めるだけじゃ、よっぽどの天才じゃないとそれこそ通用しない。
核の武器を活かすための多種多様な知識と、小さくたってコツコツと実績を積み重ねていくコトが大事。

 

私にとっての磨くべき原石は、集中力と発想力。
これがあるコトは確か。

 

私の頭の中では常日頃、膨大な量の思考が渦巻いている。


1日のうちの9割は、私はそこに生きていない。
自分の思考の中で生きている。


つまるところ、人生の大半が第三セルクルなのね。(第三セルクルっていうのは、心のセリフが過去や夢や妄想、ここじゃないどこかに飛んでいるコトを指す言葉です。)

 

このセルクル時にせっかくいいコトを思いついてもすぐに忘れてしまう私は、原石を磨くために、思いついたら片っぱしからメモを取るコトにした。


氾濫して行き場をなくした思考たちに、言語化によって居場所を与えてあげようプロジェクトです。


私の思考がどこへ向かうのか、なにを生み出すのか、まだちっともわからない。だけど、不自由な枠に収めたくはないんだよ。


集中力と発想力をたくさん磨いて、それを活かせる将来を見つける。

 

そう、まだ何を目指すのかすら具体的に決まっていない。


まずは原石をできるだけ磨いて、今のうちにチャレンジできるコトにたくさんチャレンジして、研磨剤を増やして、実績として積み上げていく。

 

その先に、原石がダイヤモンドになって輝ける場所があるはずだ。

 

なんだかごちゃごちゃしちゃったかしら。


まとめると、

 

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ってコトでした。

 

というわけで、ダイヤモンド磨きのために、noteも活用していけたらと思う。


まだまだ未熟なばかりの大学生ですが、精一杯日々「生きる」を模索している最中なので、あったかく見守ってください。

 

いじょ!

趣味、にありーいこーる伝染病。


ここ最近のプレパで、キャストチーフがよくDie Antwoordの曲を流している。

 

初めて聴いたときは
そもそもラップ系の曲を好んで聴いたことがなかったし
歌ってる女の人の声が特徴的すぎて、

 

「なんだこの曲、、、」

 

ってわりと抵抗があって
まわりもそう言ってる人がほとんどだったのに
今では私含めみんなですっかり
曲の中毒性にハマってしまっている。

 


このように、人の趣味は伝染する。

 

必ずしもそうなるとは限らないけど
こういうことはよくある。

 

CMで流れている曲を
何度も聞くうちにいつのまにか
口ずさんだり
ダウンロードしたり。

 

 

この類の現象を、単純接触効果っていうらしい。

 

ある刺激に触れれば触れるほど
好きになってっちゃうっていう。

 

きっとこの現象は
それまでの自分とかけ離れたところにあるもののほうが効果的だ。

 

自分がこれまで知らなかったものとか
興味なかったことが
不意に目の前に現れると
自分でもびっくりするほどそれにぞっこんになったりしちゃう。

 


なぜなら、耐性がないから。

人から人へ
為す術なしに
じわじわと広がっていく
趣味は、まるで伝染病。


確実な予防法と治療法は
いまだに発見されておりません。

 

それどころか
新種のウイルスがこれでもかと
次々に現れる世の中なのです。

 


ところで
実は私も新種のウイルスを持っている。

 

名付けて
ハーゲンダッツのふた収集病。

 

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期間限定の出品の多さ
個性豊かなヴァリエーション
お高めのブランド

 

持ってるだけで目の保養
どんどんかわいく思えてきて
新しい味が出るたびについつい手を伸ばしてしまう


そんな症状を持つおそろしい病なのです。

 

 

うひひ、みんな感染させちゃうぞ。

一番楽しくてつらい、正直に生きるということ。

 

私は自分という人間がそんなに好きじゃない。

 

 

中高時代は特に嫌いだった。

 

他の人に「それは違うよ」とか

「ちょっとずれてるよね」とかって言われるのが怖かった。

 

一般常識の線はどこなのか

それを常に探しながら型にはまってはみ出さないように抑えていた部分が多かったように思う。

 

小学校高学年くらいから、外面を飾って周りの顔色を伺いつつ過ごしてきて

高校生になって自分の本当の中身との間のギャップに追いつけず

すべてをめちゃくちゃにぶっ壊してしまったことがある。

 

当時は本当に四六時中、まわりの人みんながただの他人に思えて

自分ひとり丸裸で言葉の嵐の渦の中に放り込まれている気分だった。

 

 

大学に入ってからも、他人の視線を気にしてしまうのは変わりがなくて

なかなか正直に気持ちを吐くことができなくて。

 

正直に生きるって

すごく勇気がいるし大変なことだと思う。

 

指標は自分の中にしかないし、結局最後に判断を下すのは自分だから。

 

これまでの既存の価値観で

誰かの考えにしがみついているほうが

ずっとずっとラクなんだ。

 

 

その場では。

 

どんどん、どんどん、どんどん

いらいらもやもやが餌を与えられて大きく育っていく。

 

でも心なしか

最近はそれがあんまりない。

 

いいことなんだけど

どうしてだろう、何が原因だろう

とずっと頭の隅に引っかかっていた。

 

 

 

そんな私は昨日、新たにとても素敵な人と出会った。

 

ユーモラスで

自分をしっかり持っていて

人の気持ちをつかんで動かせる

とても魅力的な人。

 

 

その人物とは、秋学期のR&Wの男の先生である。

 

Kazって呼んでとおっしゃっていたので、そう呼ばせていただきます。

 

彼は授業開始からしばらく「僕はイスラエル人と日本人のハーフで」「日本語はあんまり得意じゃなくて」といった内容のことを英語でペラペラしゃべっていました。

 

三十分くらい経った頃だったかしら

みんなでちょっとゲームもしたりして

今期はこんな感じかあ、なんだか楽しそうでよかったなあ

とぼんやり思っていたところで、Kazが突然のカミングアウト。

 

 

「実は僕、ばりばりの関西人やねん」

 

非常に流暢で綺麗な日本語で。

 

もうね、みんなびっくり。

二十人全員、三十分ずっとすっかり騙されてました。

 

そんなチャーミングでユーモア満載のKazだけど、自分のやりたいことを実際にきちんと行動に移して、自信の根元になりうるオリジナルの価値観を持ってる。

 

英語を学生に教えて

作曲の仕事をして

NPO法人の団体として海外で活躍して。

 

「いつ、何がきっかけで、どうしてその人の興味がそっちに行くのかなんて誰にもわからないんだから、自分がやりたいことをとことんまでやればいい」

 

大事なのはきっかけと理由。

 

逆にそれがない段階である物事に取り組んだところで、気持ちが中途半端なんだからさっぱり意味がない。

 

 

「先生」っていう立場の大人から、面と向かって

やりたいことに没頭していい

と言ってもらえたことは

まるで私の心の奥深くをぽうっと照らしてくれたみたい。

 

 

正直に生きることへの恐怖に打ち勝つ、

 

圧倒的きっかけと理由。

 

 

自分を持っている人は、セットで必ずこれを持ってる。

 

否、これを持ってるから自分を持ってるんだ。

 

最初はきっと既存でもいい

誰かの手を借りて

助けてもらいながら

次第に自分ならではの道を絞っていく。

 

現にそうやってヒトは進化してきたしね。

 

なんとかしてやりたいことを成し遂げようとする貪欲さによって、人は己を愛するのだと思った。

 

 

だってすべて、他の誰でもない自分のためだもの。

 

誰がどうとか、知ったこっちゃないんだもの。

 

 

欲望が自己愛を生み

自己愛が唯一の価値観を生み

それが正直に生きることに繋がる。

 

 

ふう、壮絶な連鎖だなあ。

 

この人間の生臭さ溢れてる感が、私はとてもしっくり来ました。

 

いまの私はきっかけと理由を持っている。

打ち込めるものがある。

貪欲になれるものがある。

だから最近は、これまでのようなストレスが溜まらなかったんだ。

 

 

すごくスッキリした。

 

 

もちろん自分の好きなことだからこそ

うまくいかないことのほうが多いし

つらいって思う障害だってかくさんある。

 

 

だから、乗り越えたときに喜びが二倍になる。

 

心底、楽しいと思える。

 

 

最高じゃないか。

 

 

 

そんな贅沢の中で

これから一生付き合っていく自分という存在を

もっともっとずっと誰より愛してあげられたらなと思う。

 

そんなふうに思った一日だった。

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はじめましてのご挨拶。


どうもこんにちは。


最近はどうも天気が不安定で、はたして地球は大丈夫だろうか、と心配になることが多いほのかです。



初投稿ということで、まずは自己紹介から。



立教大学の現代心理学部映像身体学科というところに通っている1年生。

この学科、心理学部の中に含まれてるくせにわりと心理学部関係ありません。


その名の通り、映像と身体について学ぶのです。

自分の手と手を近づけ合って、「"気"を感じますよね」と先生が説くような、そんな学科なのです。

妖怪の絵を描いて討論することに2時間程使う授業があるような、そんな学科なのです。

私はそんな不思議で面白い映像身体学科がとてもすきです。


自分の身体の限界、そして未知なる部分を切り拓いていけたらいいなぁ。



そんなわたくし、中高時代はひたすらミュージカルにいそしんでおりました。

私立の女子校、いわゆるお嬢様校に小中高の12年間通っていて、部活で毎日踊って歌って演技しての練習に明け暮れてました。なつかしい。

ミュージカル部は運動部並みに言葉通り休みゼロで活動があって、1つ公演が終了してもひたすらミーティングミーティング。


当時辛いことはたくさんあったけど、みんなで「厳しさ」やら「自分の軸」やら「謙虚」やらについてくそ真面目に語り合った時間がいまの私をつくってると思うと、すごく誇らしいんだなぁ。

この部活を通して、確かに私のアイデンティティが創造されたんだもの。


そんなこんなで舞台の世界から離れられなくなった私は、今ではすっかりno 舞台 no 人生。

大学では英語劇をやっております。


四月に入ってびっくり、大学生は規模もレベルも桁違い。とっても本格的なのさ。

毎日演劇の奥深さを実感しているところです。


本当に演技ってむずかしい。


かといって、私がこのブログで書きたいのは演劇についてというわけではなく。

もちろんそれも書くかもだけど、まずは友だちに感化されましたっていうのが主に1つ。笑

M.I氏ありがとう。


それから単純に、私という人間の考えをストックしておきたいから。

人間は忘れる生きもの。

忘れることによって自分を守っていることもある、けれど忘れたくないのに忘れてしまうこともある。

そしてその記憶はいつか何かの役にたつかもしれない。もしかしたら、もしかすると。


要するに、私の自己満書き留めノートです。

ブログっていう書く機会を設けることで、これまで見落としてしまっていた日常のワクワクを発見できることに、そしてその発見が誰かにとっての刺激になることに、少々の期待を込めて。


ほのぼのらいふ、すたーと!

 

 

 

あ、全然関係ないけど、こないだ食べたredrockのローストビーフ丼が美味しすぎたよ。

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